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2024年5月2日木曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.2 英語研究会の看板掲げ (1885年)

 横浜YMCAの創立(1884年)以降、稲垣信牧師(後に第2代会長)の指導を受けながら信仰と修養を重ね、講演会を催して市民にキリスト教信仰を呼びかけていました。

翌1885年には、真砂町3丁目の柳下平次郎所有の建物に英語研究会という看板を掲げて当時有数の英語学者高橋五郎氏が指導に当たり、多くの青年たちの集う場となっていました。髙橋五郎氏は単に英語学者であっただけではなく東京YMCAの機関紙であり同時に当時の代表的な思想雑誌であった「六合雑誌」の初期に毎号論説を書いていた青年の指導者でした。1902年に横浜YMCAは、横浜英語学校の経営を引き継ぎ、「YMCA付属英語学校」を開校し、最初の校長にはフェリス和英女学校教頭岩佐琢蔵が就任し英語を学ぶ青年たちへの英語教育を行い、多くの青年でにぎわっていました。1907年に第1回卒業生から創立45周年の1937年までの31回の卒業生まで600人を超える青年を送り出しました。

 (参考「横浜YMCA百年史」「横浜の英語夜學校」日本英学史学会発行1976年9月)


多くの青年が英語学校で学び、視野の広い国際人として期待が寄せられた(1910年代)


2024年4月2日火曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.1

横浜YMCAは2024年10月に創立140周年を迎えます。今月からは横浜YMCAの歴史や先達の働きを紹介します。

横浜YMCAは1884年横浜海岸教会の若い会員5人が主唱して「横浜基督教青年会」が誕生しました。『横浜YMCA百年史』によると1932年発行の「横浜市史稿」(神社・教会編)に「横浜基督教青年会」とあり、沿革として1881年頃に山手居留地47番に先志学校という英学塾があり、校長は宣教師ワイコフ(後の明治学院教頭)が務め、その寄宿舎内の塾生は所属教会のために良く働き、1884年海岸教会において会員木村喜太郎、北島増蔵、小幡傳明、八木紋次郎等の青年が主唱者となり、小規模の青年会を組織し、会長に共立女学校教師の熊野雄七(海岸教会長老)を推し、牧師稲垣信が指導にあたったとあります。このような背景をもとに海岸教会の若い信徒たちが核となって横浜YMCAが誕生しました。発足当初から演説会(講演会)を行っていました。1887年5月「基督教新聞」第200号には横浜基督教青年会員諸氏による演説会が開かれ3千余名の聴衆を集めたことが記載されています。創立当初から社会の課題を地域の人とともに考える歩みを大切にしていると感じます。

(「横浜YMCA百年史」参照)

演説会などが開かれた市内の集会所(1880年代)


2024年3月1日金曜日

体験を平和につなぐ Vol.32

「平和を創るために歩み続ける」 

本コラムは今号にて終了となります。これまでのコラムを振り返りたいと思います。

横浜YMCAでは、公正で平和な世界を目指し活動を展開しています。「体験を平和につなぐ」のコラムは、2021年8月から2024年2月まで6人の方から31回にわたり、それぞれの体験をご紹介いただき、平和について考える機会となりました。心から感謝いたします。

2021年8月からの松島美一氏(元常議員)は、国民学校への入学や学童疎開、歴史の授業、教育勅語などの体験を記しています。2022年1月からの茂木雄氏(理事・常議員)はご自身の歩みを通してアメリカに対する憎しみが学生YMCAや出会った先生により代えられ、その後の人生における企業での働きやYMCAでのボランティア活動を通し平和を創る活動につながったことが伝えられました。2022年4月からの田口堅吉氏(厚木ワイズメンズクラブ)は、小学校時の上級生が戦死したことへの思い、祖母の手を取り避難したことなどご紹介いただきました。2022年7月から加藤利榮氏(横浜とつかワイズメンズクラブ)は軍事工場の配置換えによりいのちをつないだこと、終戦を迎えた日の記憶が記されています。2022.12月から川口知幸氏(厚木ワイズメンズクラブ)は、お母様の貴重な手記を寄せていただき、岡山大空襲や防空壕に入らずにいのちが守られたことなどを紹介しました。2023年5月から高橋信夫氏(常議員・大和YMCA運営委員長)は、ご自身の生い立ち、父親への思い、戦後47年ぶりの友人との再会、家族、アジアの民衆の痛み、聖書からの平和になどを伝えていただきました。

平和を創るためにこれからもともに歩み続けていきたいと思います。


2024年2月1日木曜日

体験を平和につなぐ Vol.31

 「でも、とにかく」

 1998年3月に「21世紀キリスト教社会福祉協議会発会式」にて、「マザーテレサから学んだもの~21世紀を前にして~」の題でカトリックの粕谷甲一司祭の講演を伺いました。そこで「ANY WAY(でも とにかく)」という幾つかの「ルール」を学びました。

 『アッシジのフランシスコの平和の祈り』は、「神よ、わたくしを あなたの平和のために 用いてください」と祈り、「憎しみのあるところに愛を」「争いのあるところに和解を」「分裂のあるところに一致を」「疑いのあるところに真実を」「絶望のあるところに希望を」「悲しみのあるところに喜びを」「暗闇のあるところに光を」もたらすことができますように助け導いてくださいと続きます。

 それぞれに「でも とにかく」と前置きをつけて「でも とにかく 彼らを愛しなさい」と祈ってみると、何か励まされ、「力」づけられる思いがするのではないでしょうか。「でも とにかく」というキーワードは、「とにかくやってごらんなさい」という励ましのニュアンスがあるように思います。

 私たちの国は、明治の以降、アジアの諸国の人びとに多くの罪を重ね、苦しみと悲しみ、そして痛みを負わせてきたことを率直に認めなければなりません。この罪責の自覚を為すことができますようにと思います。一人ひとりが変えられていくとき「平和な小社会」が形成されていくと思います。皆さんの周囲から「でも とにかく」という仲間や社会を創っていきましょう。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)


2024年1月5日金曜日

体験を平和につなぐ Vol.30

 敵を愛する

 世界に紛争が絶えない現実があります。聖書は平和について次のように伝えています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5章44節)と記されています。そして、別の箇所には「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口(わるくち)を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカによる福音書6章27-28節)とあります。「敵を愛すること」は、容易なことではありません。「自分を迫害する者のために祈りなさい」とありますが、何を祈れば良いのでしょうか。「祝福」を祈るようにということですが、ここに求められているような「祈り」など、「とんでもない」という思いなのではないでしょうか。

 しかし、聖書は、非常に具体的な例を、次に続けて記しています。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」(マタイによる福音書5章46節)といい、「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」(マタイによる福音書5章47節)と、類似の論理を示し、同じ共同体を超えた愛を求めているのです。そして、結びとして、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5章48節)とあります。私たちが、不完全であることを 神様はご承知の上で、求めておられると思うのです。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫) 

2023年12月1日金曜日

体験を平和につなぐ Vol.29

 剣を鋤に 槍を鎌に

前号で紹介した書籍「戦争と罪責」に登場する小川武満牧師は、中国北京の中国人教会での平和のための日中合同礼拝において「戦争の罪責を最も負っているのは私自身である。私はそのことを告白せずに聖書の言葉を語れない」と述べたといわれます。これを野田氏は「これは、死ぬための戦争を生き延びた人の証言である」と評しています。小川牧師は、2003年12月14日、90歳で亡くなられましたが、私たちは、その志を語り続けなければならないと強く思わされます。

このようなことを思い巡らすと、「人は自分のした罪の責任を認めがたい性(さが)を持っている」ということを自覚することにより初めて「和解」をすることが可能となるのではないでしょうか。そして、この「和解」の出来る関係が築かれることで「平和」の具現化につながっていくと思います。

 この「平和」な社会の姿こそ、聖書イザヤ書2章4節に記されている「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」という社会だと思うのです。この聖書の言葉は、国際連合ビルの前の広場にある碑に刻まれているといいます。国際連合の願っている世界こそ、この聖書の言葉の示す姿なのです。しかし、残念ながら、国際連合の願いをよそに、世界に紛争が絶えない悲しい現実があります。平和を願う思いが、この現実の中に埋もれてしまいそうに思われます。何とか、道はないものかと思う日々です。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)


2023年11月7日火曜日

体験を平和につなぐ Vol.28

 アジアの民衆の痛みに思いを馳せる

 書籍を紹介します。一冊目は「戦争と罪責」野田正彰著(岩波書店 1998年)、二冊目は「20世紀からの決別~アジアが日本の戦争責任を問い続ける理由~」ワン・シューグァン著(白帝社 1998年)です。野田氏の「戦争と罪責」には、敬愛する医師である小川武満牧師の生涯が凝縮されて記されています。ご自身は軍医として、特異な経歴を歩まれ、「戦争と罪責」を生涯の課題とされました。幾人かの日本軍将兵の心の深いところに押し込まれていた鈍麻した感情が豊かに回復され、侵略の罪の自覚に目覚めた者が歩む様が記されています。「加害者」意識の覚醒ということの重要さを強く思わされました。

 ワン・シューグァン氏の「20世紀からの決別」では、アジアの民衆の多くが「被害者」であったことを「加害者」としての自覚の希薄な日本人に訴えています。この中で「戦後の日本で戦争の悲惨さを語る際に、被害国の民衆の苦しみよりも、むしろ、広島・長崎への原爆など、日本国民が受けた被害が常に大きく取り上げられている」という指摘があります。その結果、日本国民の多くは、心の底に一種の『被害意識』を植え付けられ、加害者側国民の一人という立場を知らないという人さえ現れているというのです。私も、加害者意識の希薄さは、懸念するところであり、日本人一人ひとりが、戦争の罪過を先人たちのことと不問にすることなく、今もアジアの民衆の痛みに心を馳せる思いが求められていることを自覚し、その責を謝する思いを伝えることが求められていると思います。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)


2023年10月5日木曜日

体験を平和につなぐ Vol.27

意識の差

 私の家族の歩みを振り返りますと、日本の植民地政策に加担した歩みであり、その威光のもとにあぐらをかいた生き方をしていた「加害者」の側にあったことを意識していなかった罪を心の痛みとして覚えるのです。毎年の8月、原爆の被災を思い、再び、核を用いることのない平和をと願っていますが、戦争における「加害者」と「被害者」の「意識」について考えさせられます。ある方から印象強い話しを聞いたことがあります。それは、「足を靴で踏まれた者は、踏まれたことを 何時までも忘れられないが、靴で踏んだ者は、踏んだ事など 間もなく忘れてしまうものだ」というたとえでした。これは「加害者」と「被害者」の意識の差があることを如実に示しています。

 日本人が、日清戦争にはじまる韓国の人びと、中国の人びとに、さらにアジア諸国の人びと行ってきた事柄について思い巡らすとき、日本人は「加害者」であったという「意識」が希薄であると思わされます。あるアジアの学者が、日本人を評して、次のように述べています。「(日本人とは、自らの)非を認めようとせず、相手の痛みを知ろうとせず、自らあるいは自分の父兄(ちちあに)の世代が犯した罪への反省と、被害者に対する償いの義務を感じない人種だ。」というのです。私は、この酷評をも率直に認め 受け入れ、反省すべきであると思わされるのです。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)

2023年9月26日火曜日

横浜YMCA 折り鶴プロジェクト2023

横浜YMCA折り鶴プロジェクト2023
~平和への祈り~

 
 戦争のない平和な世界を目指して、今年も横浜YMCAでは7月1日~31日まで「折り鶴プロジェクト」を行いました。

 横浜YMCAの34の施設で子どもから高齢者まで多くの方が参加し、「平和への想い」を込めて一羽一羽鶴を作ってくれました! みなさまに作って頂いた折り鶴は、全て合わせて約20,000羽になりました。 

 皆さまから寄せられた折り鶴の一部は、8月14日~16日に実施された横浜YMCAアフタースクール「ひろしまピースキャンプ」に参加した子どもたちの手によって、私たちの平和への想いとともに広島平和記念公園内にある「原爆の子の像」に献納されました(残りは広島YMCAを通じて献納されました)。

  なお、今年はSDGsの観点から、過去に広島平和記念公園で献納された千羽鶴を利用して作られた「再生紙折り紙」を一部使用して、鶴を作りました。 



今回折り鶴プロジェクトにご協力いただいた皆さんに感謝いたします。

ありがとうございました!


国際・地域事業 インターン            BUASONG PATRAPORN 文                          NGUYEN MINH HANH 動画

#横浜YMCA
#平和
#広島平和記念公園
#原爆の子像
#千羽鶴
#再生紙折り紙

2023年9月1日金曜日

体験を平和につなぐ Vol.26

 ハルビン(哈爾濱)の地

 残留生活の中で慰められ、支えられたエピソードを母は繰り返し口にしていました。それは、敗戦の年のクリスマスの夜に、日本人が集団で生活している建物の窓辺でその地のクリスチャンたちが、わざわざクリスマス・キャロルを聞かせてくださったというのです。心慰められ、感謝に満たされたことはもちろんで、このような時に、さまざまな方から、いろいろな形で親切にしていただけたことは忘れられないようでした。

 私は、「ハルビン(哈爾濱)」の地で、一時期ソ連(当時)側の使役に従事していました。幸い身内の家庭に居候をし、一年後帰国することができました。戦後の「ハルビン(哈爾濱)」には、北満州一帯周辺各地からの避難民が終結し、寒冷地での越冬は過酷であり、多くの女性や子どもたちが犠牲になりました。今日も残留日本人孤児のことが話されますが、これらの日本人の子らを養育した中国人の善行に頭が下がります。

 当時、私は幸いにも日本に帰国することが許されました。医学の学びを続けることが可能であるならば、次の代の国を支える子どもたちへの働きに就きたいと願っていました。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)


2023年8月2日水曜日

体験を平和につなぐ Vol.25

 父 連行-釈放-韓国へ

 敗戦後各地で、旧体制崩壊後の現地政府が、その地の日本人指導者層を捕らえ、朝鮮民族への諸罪責を問いました。父も、その指導者層の一人として、旧道庁所在地の新義州に連行されました。多くの人の生死が不明になることや、悲惨な死を遂げた方もいらっしゃいました。父の場合は、ある時期まで厳しかった取り調べも、ぱったり止み、三カ月余の後、釈放され、居留地に戻ることが許されました。当時、日本人をかばう証言は誰も引き受け手がなく、釈放されたことは、どこのどなたが主張し、裏付けたのか、全く不明でした。

 父が帰宅すると、その地に居住している日本人集団のまとめ役の仕事を引き受けることになりました。日本人は、これまでの生活の場を明け渡し、集団で生活することが強いられました。そこに各地から避難してきた人たちを含め日本人の生活が支えられるように、対現地政府や当時駐留したソ連軍の司令部などと、さまざまな折衝を行い、日本人集団の和を保つ役をし、日本への帰還の交渉など心休まる時のない毎日を送りました。1946年9月初めに、父は大部分の日本人を送り出したあと、さまざまな支援を必要とする老人を含む集団を、小さな船2艘をチャーターして、海路黄海を南下脱出し、210日の時期であり、海上で台風に翻弄され、マストが折れるほどの損傷を受けつつ、ようやく38度線を越えたのか越えないのかという引き潮の干潟に下ろされて、現・韓国側の地を踏むことができました。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)


2023年7月3日月曜日

体験を平和につなぐ Vol.24

戦後47年ぶりの友人との再会

 私の成長期は、昭和の軍国体制の時でした。9・18事変とも呼ばれる満州事変は1931年9月18日、柳条湖の鉄道爆破に端を発しましたが、幼かったので記憶に残っていません。1941年12月8日、日米開戦の日は、満洲の「奉天(現・瀋陽)」の中学校の寮の食堂で友とその知らせを知りました。そして、1945年8月15日の敗戦の日は、満洲の「哈爾濱(ハルビン)」で迎え、満洲国立哈爾濱医科大学の講堂で敗戦の放送を耳にしました。

 1992年8月に大阪で日本キリスト者医科連盟の集いがあり、ゲストとして参加した韓国の医師がスピーチをしました。その内容は、1945年8月のソ連の侵攻に始まる敗戦までの数日の出来事を交えた体験で、私の経験と重なりました。クラス・メートに違いないと直感し、演壇に近づいて、私の思いを伝えると彼も同意したので、戦後47年ぶりの再会となりました。彼は牧師の息子で、韓国名を名乗っていました。当時は、創氏改名制度(日本に植民地支配されていた朝鮮で1940年から皇民化政策の一環として実行された、それまで朝鮮になかった「氏」を創設し、名を日本風に改めることを強制した政策)により日本式氏名で呼んでいました。韓国籍であることは、全く予期していませんでした。 彼も、あの8月15日以後、帰国したのですが、朝鮮戦争の動乱など幾多の辛酸を嘗め、医師となり、当時、釜山にある基督教病院長で、韓国の基督教病院団体の代表を務めていました。


(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)

2023年6月1日木曜日

体験を平和につなぐ Vol.23

丹東で生まれた私と父の歩み

 私は、朝鮮と中国との境の中国側にある「安東(現在の丹東)」の病院で生まれ育ちました。私の人生は父の歩みに影響されましたので父の歩みに触れたいと思います。1917年(大正6年)に青山学院を卒業し、中等学校の英語教師になることを望んでいました。ところが、ある宣教師の呼び掛けに応じ、まったく思いも寄らない朝鮮の人びとのためのミッションスクールに赴任しました。そこは、ソウルの南方約130kmにあり、以前、韓国の首都機能の移転先として話題になった「公州(コンジュ)」にある「永明学校」で校内ただ一人の日本人として、朝鮮の人びとの社会の中に過ごす毎日でした。その2年後、三・一独立運動、つまり1919年3月1日に起った朝鮮独立運動の渦の中に置かれることになりました。身の危険を覚えることはなかったようですが、日韓事情の資料によると、その学校の学生ら、またその地の公州教会の牧師も参加したと記録があり決して平穏であったとはいえないでしょう。

 父は、教師生活3年余の後、「ある人に勧められて」朝鮮総督府の職員となり、現在の北朝鮮・平安北道に赴任しました。その後、私が小学校に入学した年に、父は、「農業水利事業」の組織に身を移し、戦争末期に「米穀流通事業」の組織に移り、私が卒業した小学校の所在する「定州(チョンジュ)」の地で敗戦の日を迎えました。

(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)

2023年5月9日火曜日

体験を平和につなぐ vol.22

 7月7日と聞いて

 私が高齢者施設の管理者であった時に、昼食を利用者の方々と一緒に摂りました。そこで、ご高齢の方々の様子を見せていただきながら、交わりの時を楽しみにしてました。ある年の七夕の日に、テーブルでご一緒したご婦人に「今日は、7月7日ですね」と、声を掛けましたら、ご婦人は「あの日から、戦争の渦に巻き込まれてしまって…」と、おっしゃいました。「そうでしたね。盧溝橋の事件から中国全土に戦線が広がり、国民の誰もが苦労をしたその始まりの日でしたね」と、戦時中の苦労を聞かせていただきました。そのご婦人にとって、7月7日は七夕の思いよりも、あの日中戦争の始まりの日として、脳裏から離れられない日であったのです。

 7月7日と聞いて、盧溝橋事件のことを口にする方は、今は、ほとんどなく、ある年齢以上の方に限られると思います。それは、1937年のことで、当時、私は小学生でした。私の家族は、北朝鮮の田舎に住んでおり、「定州(チョンジュ)」という町の小学校に汽車通学をしておりました。そこは、「平壌(ピヨンヤン)」と、中国との国境の街、「新義州(シニジュ)」との中間点に位置してました。急きょ戦時体制となり、軍事輸送が優先され、軍用物資そして軍人・軍馬が列車で北へ北へと輸送されるのを目の当たりにしました。

 (元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫) 


2023年2月1日水曜日

体験を平和につなぐ vol.19

母の証言3 子どもたちのために

1945年6月の空襲が終わり、夜が明けたら、ものすごい雨でした。岡町の人は、一軒焼け残った天理教の施設へ避難せよとの命令がありました。そのときには長男を背負ってくれた学生さんの姿はありませんでした。私はショックで歩き出せないでいました。

長男の手を引いてやっと避難所に着きました。ほっとする間もなく、若夫婦が3カ月ぐらいの赤ちゃんを抱いて、「乳を飲ませてくださいませんか」と言われました。泣いている小さな赤ちゃんの顔を見ていたら、かわいそうで思わず、乳を飲ませていました。私も6か月の次男に乳をあげなければならないので、片方の乳をその赤ちゃんに、もう片方の乳を次男にふくませました。その赤ちゃんはおなかがよほど空いていたらしく強く吸っていたことを憶えています。

昼ごろには、子どもだけにおにぎりが一個配られました。夕方には大人にもおにぎりが一個配られました。夕方、主人が安否を尋ねて避難所に来ました。無事を知ると直ぐに職場に戻っていきました。工場も火事になり、多くの人が死んだらしいと聞きました。自分ひとりで二人の子どもたちを守らなければならないと思いました。二人の子どもがきっと私を奮い立たせて、力づけてくれたのかもしれません。

(厚木YMCA運営委員・厚木ワイズメンズクラブ 川口 知幸)

2023年1月5日木曜日

体験を平和につなぐ Vol.18

母の証言2 「逃げろ」の声で生き延びた

1945年4月末に、岡山医大の学生2人が部屋を貸してほしいと尋ねて来ました。主人も徹夜が多いので、2階の部屋を貸すことにしました。

1945年6月29日の夜中2時ごろ、主人は徹夜の仕事で不在でした。「バリバリ。ザアー」というものすごい音で目が覚めて、玄関へ出たら、町は火の海でした。警報も鳴らない突然の空襲でした。慌てて枕元にいつも置いてあるオムツ2組と貯金通帳を身に付け、赤ん坊を背負い、3歳の長男を抱えて玄関へ出たら、2階の2人の学生がトランクを持って下りてきたので、学生に長男を背負ってくださいと頼んだら快く承知してくれました。学生のトランクを庭の防空壕に入れて、私たちも防空壕へ逃げようとしたら、隣組の組長さんが大きな声で「逃げろ、逃げろ」と叫んでいました。

みんなの後について、南の田んぼの方へ夢中で歩きました。人家のない田んぼは、アリの行列のようでした。頭の上から火の玉がバラバラと落ちてくる中をくぐり抜け、体中がガタガタ、足はすくみ、生きた心地はしませんでした。広い畑に着くと、回りは火の勢いが強く、飛行機の音が聞こえ「伏せろ」と声がしました。私は背中に赤ん坊を背負っていたので、伏せたら子どもが危ないと思い、長男を前に抱いて姿勢を低くしてしゃがみました。

(厚木YMCA運営委員・厚木ワイズメンズクラブ 川口知幸)

※川口知幸氏からご寄稿いただいた川口氏お母様故川口アイ氏が「厚木YMCA平和を祈る会」にて話された内容ご紹介します。

2022年12月25日日曜日

志賀ジュニア・ユーススキーキャンプ実施のご報告【1日目】

 本日25日(日)~29日(木)まで4泊5日で志賀高原でスキーキャンプが始まりました。

だんだん雪道になって近づいてきました

小学生(77名)、中学高校生(13名)のみんなが横浜駅、横浜中央YMCA、湘南とつかYMCAからそれぞれバスに乗り込みました。途中、活動するグループごとにバスを乗り換えて、予定通り雪のちらつくスキー場横のホテル金栄さんに到着しました。

ユースメンバーは慣れていますね

ゲレンデに出るのは明日からとなるので、ウエアやブーツを合わせてみます。初めてのブーツは固くて履きにくいけど、慣れてくると歩いたり、ジャンプしたり。。。

夜はみんなでお風呂に入り、美味しい食事も食べました。

明日からは予報は雪です。インストラクターやYMCAリーダーと一緒に、楽しくレッスンが出来るように早めにおやすみなさい。

明日から、少しずつ慣れながらフカフカの銀世界に飛び込んでいきます!

横浜YMCA志賀スキーキャンプリーダー一同
ジュニア1:柳田誠也(やなごんリーダー)
ジュニア2:上田芽瑠(るーリーダー)
ユース:山﨑花子(はなちゃんリーダー)
総合:服部雄貴(はちリーダー)

2022年12月5日月曜日

体験を平和につなぐ Vol.17

母の証言1 岡山大空襲

1944年11月25日に次男が誕生しました。身重であろうと、産後であろうと、1週間に2回の防空演習には参加しなければなりませんでした。バケツリレー、消火訓練と私は赤ん坊を背負って参加しました。隣組というのがあり、近所の5、6軒が一組となり、組長さんが指揮を執っていて、食料から日用品一切が配給の制度で、組員が交代で行っていました。食料は1週間に3回ぐらい配給されましたが、ねぎ2本、大根1/4、白菜1/4ぐらいのわずかな量でした。肉や魚は1カ月に1回ぐらいで、3歳の長男と赤ん坊と主人と私の4人家族には、とても足りませんでした。農家に買い出しに行きましたが、高級な衣類を持っていかないと売ってくれない状況でした。東京から岡山工場に配属された人は知り合いがいないので、みんな不自由な思いをしました。1945年2月ごろには、空襲もだいぶ広がり、岡山のあたりも騒がしくなり、防空演習はだんだん激しくなりました。主人も徹夜が多くなり、田舎の方へ疎開する近所の人も出てきて、大きい民家が空き家になったあとを会社が社宅として借りていました。

(厚木YMCA運営委員・厚木ワイズメンズクラブ 川口知幸)

※川口知幸氏からご寄稿いただいた川口氏お母様故川口アイ氏が「厚木YMCA平和を祈る会」にて話された内容をご紹介します。

2022年11月10日木曜日

体験を平和につなぐ vol.16

風任せ・波任せ 航海のような人生

1949年、19歳・高校卒業。この年の春に、新制高校3年を卒業し早稲田大学に入学しました。教科書は、20枚ほどの新聞紙二つ折り大のタブロイド版でした。同じ学級から、3年にわたり、卒業生を送り出すという前代未聞の事実は、二度とないであろうと思いました。(今でも、われわれの同期会を「二・三・四会」昭和22・23・24の3年間に卒業生がいたことを意味しています)。

1951年、21歳・早稲田大学2年。この年の6月、桜木町事故が勃発、乗客100人以上が焼死し、その中に私の知人もひとり含まれていました。鶴見の総持寺境内にある慰霊碑には、全員の氏名が刻まれています。9月8日に、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本は調印し、民主国家として内外に全権回復を示す礎となりました。当時、東京・神田の美土代町にあった東京YMCAの建物は、戦災にも遭わず2階以上が駐留軍兵士の宿舎に接収中で、1階はサロン風になっていて飲み物などを飲みに寄り道したことを思い出します。

1953年に大学を卒業して国家公務員となり法務省に就職、定年の60歳まで38年。途中、先輩からのお声がかかり、1959年に、横浜YMCAと横浜ワイズメンズクラブの会員となり現在に至りました。お陰で、人と交わり・楽しみ・助けられながら90歳過ぎの今日まで、後半は大変充実した人生を送らせていただいています。総じて、私の人生、風任せ・波任せの航海のように思っています。

(横浜とつかワイズメンズクラブ 加藤利榮)


2022年10月5日水曜日

体験を平和につなぐ Vol.15

戦後に思う

1945年に、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が神奈川県の厚木飛行場に専用機から降り立ちました。終戦から幾日もない頃だったように思います。あのパイプを横にくわえタラップを降りる姿は、今でも目に焼き付いています。その年の9月頃の新聞に、当時、マッカーサーの常駐場所であった連合国最高司令部(GHQ)のある東京・丸の内の第一生命館に天皇陛下が訪問され、並んで写真に納まっているのを見て、なぜか涙を禁じ得ませんでした。程なく、戦争犯罪人として、A級戦犯(約90人)からB・C級に至る戦争犯罪人が逮捕・起訴され処刑されました。

1946年 、16歳・中学4年。戦時中に文部省令が改正され、4年で「卒業可」という学制に改められ最高学年組となりました。幸いなことに学校は戦災を免れたものの、海軍将校を目指し、広島にあった海軍兵学校予科(略して「予科兵」)に入り、終戦で戻ってきた元同僚を受け入れ、「組の編成替え」で希望すれば、4年での卒業も出来ましたが、上級校への進学準備も整っていなかったため、学校に残ることにしました。

1948年、18歳・高校3年。新制3年に編入。通学の列車には買い出しの人でごった返し、その混雑には閉口しました。窓からの出入りやデッキにぶら下がるようにして列車につかまって乗っている人びとがいて、今では考えられない光景が日常的になっていました。

 (横浜とつかワイズメンズクラブ 加藤利榮)