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2025年9月1日月曜日

140 years of HISTORY Vol.18 地域に根差し活動 横須賀YMCA

1981年4月4日に、横須賀YMCA青少年センター(横須賀市根岸町)の献堂・落成式が行われまし た。横須賀YMCAでは、幼児から高齢者まで幅広い生涯教育を展開しようと、健康教育、進学教育、幼児教育、語学教育、コミュニティカレッジ(小学生英語・英会話・ギター・陶芸・鎌倉彫など)、指導者養成講習会(水泳・野外活動・障がい児体育・救急法)などが行われました。1983年には老人介護講習会、1989年には、全国ではじめてのマリンスポーツの指導者を養成するYMCA海洋科学専門学校が開設するなど時代のニーズに応える指導者の養成が展開されました。また、キリスト教の価値観に根差した運動体として、あらゆる活動を通して愛と奉仕の実践に取り組み、特に国際協力、国際理解などの活動を展開しました。

横須賀YMCAは2022年に汐入の地に移り、オルタナティブスクールの運営とユースの活動拠点として取り組んでいます。地域や学校との連携、親子支援、ユースの平和を考える勉強会の支援、発達障がい理解講座などに取り組んでいます。

横須賀YMCA(1981年)



2025年8月4日月曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.17 創立95周年を多くの会員と祝う

 横浜YMCAは、1979年10月18日に創立95周年を迎え、記念式典と国際シンポジウムを開催しました。記念式典は、「いま、歴史の中から明日に向かう」をテーマとして神奈川県民ホール大ホールにて行われ、2,500人の会員が新しい前進を誓いました。神奈川県長州一二知事(当時)を招き、特別講演会が行われ、1980年へ向けたメッセージが語られたほか、ボーカルグループダークダックスによる歌声は、「次に迎える100周年に向けての歩みに花を添えるものであった」と当時の𠮷村恭二総主事が報告に記しています。11月18日には記念事業として、神奈川県・横浜市・横浜YMCAの共催でアジアの国の子どもを取り巻く諸問題を理解し、その解決に市民の立場で何ができるかを考えようと「こどもの未来を考える国際シンポジウム」を国際会議場で開催しました。アジアを中心とした17か国から36人の青年指導者と市民170人が参加し、アジア各国の現状理解と子どもたちのために何ができるかについて活発な意見交換がありました。このほか記念事業として、10月に川崎市多摩区にYMCA川崎センターをビルの3階に開設し活動を開始しました。

横浜YMCA混声合唱団のオープニングではじまった
創立95周年記念式典(1979年)




2025年7月1日火曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.16 プログラムの領域を拡大

1977年からYMCA プログラムの領域拡大に特に重点が置かれるようになりました。当時の𠮷村恭二総主事からの報告では「従来の福祉の分野に押し込められていた身体に障がいのある青少年、心理的な障がいのある自閉症に悩む青少年への身体活動の組み立て、家庭教育の中核となる母親に対する学びへの招き入れ、横浜市の特色である貿易、通関業に携わる人びとへの特別教育コースの設定など、いずれも今後の継続した時間のなかで深まりが期待できる活動である」と伝えています。国際プログラムとしては、カナダ、サンディエゴ、東南アジアセミナーへの派遣、光州YMCAへ小学生を派遣するなど活発な動きがありました。日常のプログラムでは青少年をとりまく環境の中心となる家庭の変容に強調点がおかれました。1970年後半から1980年代前半頃まで開発と拡大が行われていました。1970年代の特別に重点を置いた方針のひとつとして青少年リーダーシップの養成があり、1978年には、青少年指導者養成基金が設置されました。これにより毎年一定のリーダーシップ養成が確実になり、さらに海外への派遣も含めてできるようになりました。プログラム領域の拡大としては、日本で最初の試みとして「目の不自由な子どもたちの水泳教室」(1978年)、「情緒障がい児体育指導者夏季研修会」(1979年)などが行われ、続けられました。(文中には当時の表現をそのまま用いています)

視覚障がい児のための水泳教室(1977年)

2025年6月2日月曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.15 横浜YMCAと合体した鎌倉YMCA 教育活動・グループ活動盛んに

湘南の地に藤沢YMCAが設立されることと合わせて近隣にある鎌倉YMCAと共同で神奈川県下のYMCAを一つの広域化組織として統合する研究が行われていました。横浜と鎌倉のYMCAから4人ずつの委員が選出され研究が進められました。委員会からの答申案に基づいて協議を重ねた結果、合体して一つの組織になることを1978年3月に決定しました。鎌倉YMCAと横浜YMCAは1978年4月から、鎌倉YMCAは横浜YMCAの一つのブランチとなりました。初代の運営委員長には前日本YMCA同盟総主事大和久泰太郎氏が選任されました。この年の1月に鎌倉YMCAの総主事であった安永和夫氏(横浜YMCA主事から移籍)が退職し、長澤勲主任主事が配属されました。

1945年後半の時期の鎌倉YMCAの活動は、鎌倉在住の理事の自宅を借りて少年たちの夏期英語講習等を行っていました。1951年6月には第1回鎌倉青少年問題懇談会が鎌倉教会祈祷室で開かれました。1954年には鎌倉の青少年のための活動が活発化したため、横浜YMCAからスタッフを派遣し応援しました。以降、鎌倉教会敷地内に仮の小会館を建設し、教育活動やグループ活動を行っていました。その間、幾多の消長の末、1976年に創立20周年を迎えた2年後に横浜YMCAと合体し、1981年に30周年を迎え鎌倉商工会議所にて記念式典を行いました。

 鎌倉教会内にあった当時の鎌倉YMCA(1950年代)


2025年5月1日木曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.14 YMCA運動を神奈川全域に 藤沢YMCA開設

横浜・関内にあるYMCAには、藤沢・平塚市方面に居住する方で、YMCAの事業に参加する会員生徒が増え、1976年にはその数が300人を超えていました。横浜YMCAでは新しい構想として初めて横浜市を越え、神奈川県という広域での活動を視野に入れた事業展開を、JR東海道線藤沢駅から350メートルの藤沢市鵠沼石上に、藤沢YMCAを建設することになりました。

YMCAの運動を広く神奈川全域に広めことを目指し、1977年に藤沢教会で開かれた準備委員会には、YMCA会員の数人に加え、日本基督教団、カトリック、聖公会などの各派のキリスト教会から推薦された代表者が集まりました。「湘南と呼ばれるこの地域に、キリストの愛の教えに根差すYMCA の活動拠点を築こう」という理念のもと、「仕えられるものから仕えるものになろう」「共に生きる社会を目指そう」といった目標を掲げ、藤沢YMCA活動の活動が始まり嶋ました。

1977年6月18日に起工式が行われ、1978年3月4日に落成、献堂式では神奈川県知事が祝辞を述べました。プールには北YMCAに続いて田中忠雄画伯による「イエスのエルサレム入場」の画が描かれました。同月には開館記念プログラムとして4回にわたって「教育を考える」と題した講演会が開催され、上智大学学長・ヨゼフ・ピタウ氏。元文部大臣永井道男、立教大学教授室俊司氏、教育評論家で元鵠沼中学校校長杉山智雄氏が講演を行いました。


横浜市以外の拠点設置研究の結果、湘南の中心都市藤沢市に竣工した藤沢YMCA(1978年)


2025年4月1日火曜日

140YEARS OF HISTORY Vol.13 横浜北YMCA地域社会形成の核に

 1976年に、これまでの横浜YMCAの職業教育・スポーツ振興に対する活動が認められて「横浜文化賞」を横浜市から授与されました。

 同年の4月からは、4つ目のセンターとして菊名センターを当時港北ニュータウンの開発計画のあった港北区に、地元の人を中心に運営委員会を編成し、港北菊名町コーシンマンション区2階60㎡を借りて開設しました。急激な都市化による地域社会の分断・拡散されている状況の中でYMCAを新しいコミュニティーの場として、そこから人びとが地域社会形成への核となる活力を得て、送り出されていくことを目指し開設され、少年作家へ、野外活動、小学生の英語、中学生の学習等の少年少女を対象とするブログラムを実施しました。

 菊名センターの隣地を購入し、プールと教室のある横浜YMCAとしての初の中規模施設として1977年4月に「横浜北YMCA」が開設しました。この建物には田中忠雄画伯による「種を蒔く人」の彫せん画がプールの壁に描かれました。これ以降、各YMCAのプールにはキリスト教のメッセージを伝える壁画が描かれることになりました。開館記念プログラムとして15日に、松原治郎東京大学助教授の「新しい地域形成とボランティア活動」、22日に福田垂穂明治学院大学社会学部教授の「地域社会における青少年活動」の講演が行われ、横浜YMCAの目指す新しいコミュニティー形成の意義」が語られました。


横浜北YMCA(1977年)

2025年3月3日月曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.12 新しいコミュニティーの形成目指す

1970年代に入ると高度経済成長の歪みが現れはじめ、豊かさの質が問われるようになりました。1972年に就任した第9代𠮷村恭二総主事は、このような状況に対して「青少年の問題を中心に地域形成に寄与するYMCAでありたい」と人間性豊かな新しいコミュニティーの形成を目指して、1972年にはセンター第1号として戸塚センターを開設しました。常時200人の会員と200人の季節プログラム参加者がありました。翌1973年には二俣川センターを、1974年には青葉台センターを開設しました。

また、同1974年には、建設から半世紀が経ち老朽化していた本館の立て替えに着手し、日本経済が低迷にある中、伊原隆横浜商工会議所会頭(横浜銀行頭取)を会長に建設後援会が作られ、100人を超える後援会役員の方々の強力な支援によって、1975年10月、室内プールを備えた総合的な施設内容を備えた9階建ての「横浜国際青少年センター」(現横浜中央YMCA)が開館しました。スイミング、全日制予備校、結婚式といった事業が開始されました。

旧本館の解体は3カ月間に及びました。それに先立ち事業活動の分散が行われ、尾上町スカイビル、伊勢佐木町のイセビル、常盤町別館に本館事業を分散しました。関東学院三春台高等学校の好意により体育館を夜間借用し青成体育プログラムにとっては大きな助力となりました。


多くの支援によって建てられた横浜国際青少年センター (1975年 現横浜中央YMCA )

2025年2月3日月曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.11 1960年代後半、教養文化講座盛んに

1965年10月東京オリンピックが終わり、1960年代の後半に入っていく。カラーテレビ、カー、クーラーの3Cが新三種の神器といわれ、経済発展は日本の自動車生産量を世界三位に達したといわれました。1966年から1967年にかけて横浜YMCAでは少年・青年・体育の各有志指導者の養成に力を入れると同時にプログラム活動としては教養文化的な講座を盛んに行いました。青年教養大学講座、人生設計講座、母親大学講座などを開き、これらの講座プログラムは1968年の結婚講座、婦人文化講座、1969年の青年教養大学合唱講座、将棋講座、民法講座などを加え、続いていきました。

1968年には真鶴のリトリートハウスを整備して鉄筋コンクリート三階建てとし、本格的な研修施設となりました。1968年5月に起工して同年12月に完成し、献堂式を1969年1月15日に行いました。1969年には常盤町本館のホステル事業は将来性を判断して中止しました。

同年に、1968年から従来国際友好奉仕活動として行っていた国際関係の事業を「国際事業委員会」として故杉本恭之助氏が委員長となり、事業方針を立てて組織的効率的に国際奉仕活動を展開するようになりました。

1969年にはプログラム対象年齢の低下が始まり、3歳児と母親、小学生のためのサッカー教室を開始しました。

YMCA真鶴リトリートハウスが開館(1969年)


2025年1月4日土曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.10 人材養成・地域活動・救援事業

1952年に、会館の接収が全面的に解除となると、会館を拠点として活動がスタートしました。英語教育を中心とした教育活動は、専門性のある職業人の養成を目的とした実務科を開設しました。1956年には真鶴にキャンプ場を建設し、さまざなキャンプがはじまりました。あわせてYMCAの青少年指導者の養成も盛んに行われたほか、地域からの要請を受けてレクリエーション指導者の養成事業や夏期巡回子ども会など、地域に出ていく活動が積極的に展開されました。

1959年に、横浜YMCAは創立75周年を迎え、記念式典と実業青少年に対する奨学金制度、真鶴キャンプ拡張事業を記念事業として遂行したことが報告されました。またこの年に伊勢湾台風救援事業として85梱包(5トン)の物資と9万円を超える義援金(現在に換算すると約90万円)を送りました。1960年に入ると、横浜市も都市化が急速に進み、横浜YMCAの活動にも多くの子どもから高齢者、また多くファミリーが参加するようになりました。1963年にはアメリカで開発された「フィットネス」の概念を定着させようと、アメリカから考案者のスタインハウス教授を招いて講演会や研修会を開催しました。1965年には中高年のために心身を鍛えるという概念ではなく、生活習慣全般(食事・栄養・睡眠など)についてアドバイスを行うクラスを開講し健康づくりに取り組みました。


伊勢湾台風被災者支援活動 (1959年)


2024年12月3日火曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.9 会館の接収から返還、青年活動再開

1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は隊員一行を従え厚木から横浜の宿舎としてのニューグランドホテルに直行しました。焼け残った地域の建物とその周辺大部分が米第八軍用に接収されました。YMCAの会館も9月に米軍通信部隊の宿舎として接収されました。

敗戦後、最初の横浜YMCA理事会(1945年12月4日)では、秦孝治郎理事長から会館の米軍接収について報告があったことが記されています。また進駐軍から戦災学童用として7,700枚の座布団が渡され、配布を市当局に交渉して手続きを完了したことや横浜市教育部と共同主催により吉田国民学校で教員英語会話講習会を開催したことなどの報告がありました。接収の期間は活動の拠点を吉浜橋の港中学校の一部を借館して行っていましたがその間にも会館返還へ向けた取り組みが行われました。

1949年10月に占領軍はYMCA側の会館返還の強い要請を受けて4年越しに、4階の全部と3階の一部(会館の約4分の1)が返還されました。理事会はすぐに建築委員会を設置して改修工事に取り掛かり、12月には改修が完了した会館で会員部のグループ活動やクリスマスの諸行事、体育館での卓球やフェンシング、ダンスなどが行われました。(参考「横浜YMCA百年史」)

港中学校を借りてレクリエーション活動を再開した(1946年)





2024年11月1日金曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.8 室内体育館からスポーツ一層盛んに

1930年代に入り、YMCA会員活動も定着しはじめ、室内体育館を中心にした体育活動が盛んになってきました。社会的不安などが次第に色濃くなってゆく時代にもかかわらずYMCAの会員活動は盛んになり横浜市における青少年活動としては市民から評価されるようになってきました。それは関東大震災後におけるYMCAへの市民への救護事業やその後の奉仕がキリスト教青年会に対する好意としてのあらわれであるこが「横浜YMCA百年史」に書かれています。

1927年に震災による甚大な被害を受けた会館の改修が完了して再び青少年のための活動が活発に続けられました。1930年には、体育活動として新しくデンマーク体操(東京YMCA柳田亨主事指導、横浜YMCA広田後兼敏主事)の講習会がはじまり、YMCAにおけるデンマーク体操は次第に広がっていきました。翌1931年には第1回神奈川県バレーボール大会がYMCAの主催で開かれ、1932年には婦人体育クラブがYMCAの中にできました。同年に広田兼敏主事は神奈川県バレーボール協会理事に推され就任しました。この頃、スポーツをすることによる肥満解消の呼びかけや会員活動のブログラムではキリスト教講演、レコード音楽鑑賞、書道、コーラス部、哲学や演劇などの研究会の諸講座が盛んになりました。


体育館においてデンマーク体操などの体育プログラムが盛んになった(1930 年代)


2024年10月2日水曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.7 創立50周年記念事業を展開

1934年に創立50周年を迎えた横浜YMCAは、会員活動、教育活動の充実を図るとともに50周年の記念行事の準備を行いました。記念事業は「50年記念募金計画」「会員大募集運動」「創立記念祝賀諸集会」でした。

「50年記念募金計画」は、目標額を5万円とし、①建築完成資金に2万円 ②会館改装資金に1万円 ③精神文化事業資金に1万円 ④記念事業資金に1万円を充てることにし、三カ年でこの募金を達成しようと取り組みました。

「会員大募集運動」はこの年の秋から全国のYMCAが5カ年間に1万人の会員募集を行うという計画が建てられていたので、横浜YMCAも年間会員募集計画に参加することになりました。全国YMCAの会員募集は目標を2000人としてこのうちの200人が横浜YMCAの目標でした。50周年の記念事業の一環でもあり「会員は一人の新しい会員を」獲得しようと取り組みました。「創立50周年記念週プログラム」では、YMCA記念日として基督教講演会「永遠の遺産」が行われたほか、讃美礼拝、体育実演会(箱越、マットワーク、バスケットボール他)、祝賀晩餐会、記念祝賀会などが行われ、会員とともに祝いました。

横浜YMCA創立50周年記念祝賀会(1934年10月18日)


2024年9月2日月曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.6 YMCA運動の活発化(1902年~) 

日本における近代化の歩みが1900年以降の産業資本の確立とともにあった時期に、YMCAは全国的・世界的運動へと動き出していきました。1901年7月には、東京・大阪・横浜・神戸の4つの青年会が市基督教青年会同盟という連合体を作りました。この時にはすでに学生基督青年会(学生YMCA)同盟が結成されていました。この学生YMCA同盟が最初に全国的なYMCA運動を活発に展開しはじめていました。

1902年には法曹界のリーダーで同時に熱心なキリスト者であった渡邊暢氏(横浜地方裁判所所長)が当時神奈川典獄として北海道から赴任してきた有馬四郎助氏の熱心な薦めによってYMCAの会長に選任されました。渡邊会長を中心に横浜YMCAの組織と事業の再建が進められました。この年に私立横浜英語学校の経営が困難となっており、これをYMCAが引き継ぐことを役員会にて諮り、積極的な支持のもと、YMCA付設の英語学校としました。

渡邊会長の東京転出の後任として有馬四郎助氏が選任されました。渡邊会長が進めた組織と施設の整備を受け、青年会事業の発展と拡充に力を尽くしました。


1910年代の英語学校の授業。青年への教育事業が始まった。


2024年8月4日日曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.5 青年運動法などの講演会(1896年) 

1892年10月に発行の「青年会月報」(東京YMCA発行)には、各地のYMCAの活動状況が報告されています。その中に、「横浜通信」として青年会と海岸教会の青年白羊隊について書かれています。1894年には海岸教会、指路教会、他の教会の青年たちが連合しYMCA強化を図り、定期的に英語聖書研究会などを行いました。

1896年に第6代和佐忠正会長の渡米に伴い、第7代会長に海岸教会の牧師細川瀏が就任しました。この年の11月には指路教会を会場に演説会を開き1000名を超える聴衆を集めました。毎月の例会(月次会)では、各教会を会場に開催し、11月7日には戸部の美以教会で江馬富之助国手による衛生談(青年の運動法)では、従来の運動法への注意と適切な運動法として撃剣術を参加した80人を超える青年たちに勧めました。1901年までに講演会などを続け、青年会の活動の基礎が固まっていきました。1899年には、東京帝国大学在学中に熱心に大学基督教青年会(東京大学YMCA)のために働いた原誼太郎氏が横浜正金銀行本店に就職し、横浜YMCAの会員になり、第8代会長に選ばれ草創期から次につなげる働きを支えました。(参考「横浜YMCA百年史」)

多くの青年が参加した英語聖書研究会(1920年)


2024年7月2日火曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.4 社会的な活動のはじまり(1887年)

1887年海岸教会の稲垣牧師が第二代の会長になると青年会の活動もキリスト教の伝道集会と自分たちの研究的集会から社会的な活動に広がりました。その前提には海岸教会を中心とした集会が次第に演説会や自分たちの集会の場所を住吉町教会(現在の指路教会)やメソジスト派の天安堂というように他教会が使われるようになったことでした。これは他教会の青年たちが次第に参加したことを示しています。

1888年5月28日には、若葉町天安会堂で横浜青年会臨時総会が開かれ、YMCA活動の拡張にの協議が行われ、会館を住吉学校内に設けることや毎木曜日に講師を招いて講演を開催すること、会員を募集することなどが議決されました。1889年から1890年にかけて青年会は社会的活動として廃娼運動に力を注ぐようになりました。横浜YMCAの会員は、1890年11月の県議会で廃娼が決議に至るまで中心的な運動の推進者として神奈川県史にも記録され、この社会浄化運動にかけた横浜YMCAの情熱は大きな足跡となりました。(参考「横浜YMCA百年史」)

県に提出された廃娼建白書(1890年)



2024年6月1日土曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.3 はじめての会議や演説会 (1886年)

1886年3月26日発行の「基督教新聞」によると「此度横浜基督教青年会を設け去月第二土曜日夜之に就き始めて会議を開き其規則を討議し其役員を選挙し即ち会長には熊野雄七氏、幹事に片山郁氏、書記には中田辨吉氏、、会計には北島五郎右衛門氏、商議員には藤生金六、八木常太郎、和田肇の三氏当選せられたり。又本月第一土曜日の夜は始めて演説会催し半田(開会の主意を述べ且つ青年諸君に臨む)中田(宗教の効果)八木(奮起せよ発奮せよ青年諸君)藤生(青年諸君に告ぐ)伊橋(基督教神学の必要を論ず)の四氏交々演壇に上りて演述せられ其外に河村武彦、小幡傳明の二氏は青年会の設立を祝する文を朗読せられたり(編者考。「去月第二土曜の夜」とは明治十九年二月十三日に当たる。)」という記事があります。このことは横浜YMCAが1884年10月に出立して約1年有余るささやかな活動をつづけた後青年会の名実ともに生誕をする準備・胎動をつづけていたといえるとあります。翌20年になるとフェリス和英女学校教師の高根虎松(後の法学博士高根義人)の入会援助によって会はなお発展したといわれています。そして発足当初から行っていた外へ向かっての演説会(講演会)には3000人の聴衆を集めたといわれています。(参考「横浜YMCA百年史」)

演説会は開設当初から続けられ多くの市民が集まった(1910年代)


2024年5月2日木曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.2 英語研究会の看板掲げ (1885年)

 横浜YMCAの創立(1884年)以降、稲垣信牧師(後に第2代会長)の指導を受けながら信仰と修養を重ね、講演会を催して市民にキリスト教信仰を呼びかけていました。

翌1885年には、真砂町3丁目の柳下平次郎所有の建物に英語研究会という看板を掲げて当時有数の英語学者高橋五郎氏が指導に当たり、多くの青年たちの集う場となっていました。髙橋五郎氏は単に英語学者であっただけではなく東京YMCAの機関紙であり同時に当時の代表的な思想雑誌であった「六合雑誌」の初期に毎号論説を書いていた青年の指導者でした。1902年に横浜YMCAは、横浜英語学校の経営を引き継ぎ、「YMCA付属英語学校」を開校し、最初の校長にはフェリス和英女学校教頭岩佐琢蔵が就任し英語を学ぶ青年たちへの英語教育を行い、多くの青年でにぎわっていました。1907年に第1回卒業生から創立45周年の1937年までの31回の卒業生まで600人を超える青年を送り出しました。

 (参考「横浜YMCA百年史」「横浜の英語夜學校」日本英学史学会発行1976年9月)


多くの青年が英語学校で学び、視野の広い国際人として期待が寄せられた(1910年代)


2024年4月2日火曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.1

横浜YMCAは2024年10月に創立140周年を迎えます。今月からは横浜YMCAの歴史や先達の働きを紹介します。

横浜YMCAは1884年横浜海岸教会の若い会員5人が主唱して「横浜基督教青年会」が誕生しました。『横浜YMCA百年史』によると1932年発行の「横浜市史稿」(神社・教会編)に「横浜基督教青年会」とあり、沿革として1881年頃に山手居留地47番に先志学校という英学塾があり、校長は宣教師ワイコフ(後の明治学院教頭)が務め、その寄宿舎内の塾生は所属教会のために良く働き、1884年海岸教会において会員木村喜太郎、北島増蔵、小幡傳明、八木紋次郎等の青年が主唱者となり、小規模の青年会を組織し、会長に共立女学校教師の熊野雄七(海岸教会長老)を推し、牧師稲垣信が指導にあたったとあります。このような背景をもとに海岸教会の若い信徒たちが核となって横浜YMCAが誕生しました。発足当初から演説会(講演会)を行っていました。1887年5月「基督教新聞」第200号には横浜基督教青年会員諸氏による演説会が開かれ3千余名の聴衆を集めたことが記載されています。創立当初から社会の課題を地域の人とともに考える歩みを大切にしていると感じます。

(「横浜YMCA百年史」参照)

演説会などが開かれた市内の集会所(1880年代)