1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は隊員一行を従え厚木から横浜の宿舎としてのニューグランドホテルに直行しました。焼け残った地域の建物とその周辺大部分が米第八軍用に接収されました。YMCAの会館も9月に米軍通信部隊の宿舎として接収されました。
敗戦後、最初の横浜YMCA理事会(1945年12月4日)では、秦孝治郎理事長から会館の米軍接収について報告があったことが記されています。また進駐軍から戦災学童用として7,700枚の座布団が渡され、配布を市当局に交渉して手続きを完了したことや横浜市教育部と共同主催により吉田国民学校で教員英語会話講習会を開催したことなどの報告がありました。接収の期間は活動の拠点を吉浜橋の港中学校の一部を借館して行っていましたがその間にも会館返還へ向けた取り組みが行われました。
1949年10月に占領軍はYMCA側の会館返還の強い要請を受けて4年越しに、4階の全部と3階の一部(会館の約4分の1)が返還されました。理事会はすぐに建築委員会を設置して改修工事に取り掛かり、12月には改修が完了した会館で会員部のグループ活動やクリスマスの諸行事、体育館での卓球やフェンシング、ダンスなどが行われました。(参考「横浜YMCA百年史」)
港中学校を借りてレクリエーション活動を再開した(1946年)