日本における近代化の歩みが1900年以降の産業資本の確立とともにあった時期に、YMCAは全国的・世界的運動へと動き出していきました。1901年7月には、東京・大阪・横浜・神戸の4つの青年会が市基督教青年会同盟という連合体を作りました。この時にはすでに学生基督青年会(学生YMCA)同盟が結成されていました。この学生YMCA同盟が最初に全国的なYMCA運動を活発に展開しはじめていました。
1902年には法曹界のリーダーで同時に熱心なキリスト者であった渡邊暢氏(横浜地方裁判所所長)が当時神奈川典獄として北海道から赴任してきた有馬四郎助氏の熱心な薦めによってYMCAの会長に選任されました。渡邊会長を中心に横浜YMCAの組織と事業の再建が進められました。この年に私立横浜英語学校の経営が困難となっており、これをYMCAが引き継ぐことを役員会にて諮り、積極的な支持のもと、YMCA付設の英語学校としました。
渡邊会長の東京転出の後任として有馬四郎助氏が選任されました。渡邊会長が進めた組織と施設の整備を受け、青年会事業の発展と拡充に力を尽くしました。
1910年代の英語学校の授業。青年への教育事業が始まった。