横浜YMCAの創立(1884年)以降、稲垣信牧師(後に第2代会長)の指導を受けながら信仰と修養を重ね、講演会を催して市民にキリスト教信仰を呼びかけていました。
翌1885年には、真砂町3丁目の柳下平次郎所有の建物に英語研究会という看板を掲げて当時有数の英語学者高橋五郎氏が指導に当たり、多くの青年たちの集う場となっていました。髙橋五郎氏は単に英語学者であっただけではなく東京YMCAの機関紙であり同時に当時の代表的な思想雑誌であった「六合雑誌」の初期に毎号論説を書いていた青年の指導者でした。1902年に横浜YMCAは、横浜英語学校の経営を引き継ぎ、「YMCA付属英語学校」を開校し、最初の校長にはフェリス和英女学校教頭岩佐琢蔵が就任し英語を学ぶ青年たちへの英語教育を行い、多くの青年でにぎわっていました。1907年に第1回卒業生から創立45周年の1937年までの31回の卒業生まで600人を超える青年を送り出しました。
(参考「横浜YMCA百年史」「横浜の英語夜學校」日本英学史学会発行1976年9月)
多くの青年が英語学校で学び、視野の広い国際人として期待が寄せられた(1910年代)