「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲て(なげう)」は、律法を重んじるファリサイ派の人びとが、石打の刑にあたる罪を犯した女性を捕らえてきてイエス・キリストの前に立たせて試した時、イエス・キリストが発した言葉である。結果、誰も石を投げられずにその場を立ち去ってしまう。(ヨハネ傳福音書8章 文語訳)
痛ましい事件事故が続いている。「船」「バス」などキーワードだけでも報道の内容が思い出される。各種メディアの報道で私たちは事実と事故の背景を知り、わが身に置き換えて身の回りを振り返る。ことに私はYMCAの諸活動の準備や実施状況、もしもの対応などを考えずにはいられない。そういう点から各種メディアが競うように事件事故を掘り下げ詳細に伝えてくれることは社会に必要な行為なのだと感じることがある。あってはならない事故の悲惨さと被害に遭われた関係者の方々の沈痛な思いを感じ、私たちの活動における備えとさせていただく思いである。
一方、取材の一環で行われるインタビューでは、謝罪や事故を起こしてしまった今の感情などを繰り返し聞くシーンを疑問に思うことがある。ある表現・ある表情・ある行為に至るまで聞くつもりなのだろうか。「視聴者目線」という自分たちが定めた基準を「皆が求めている」としていないか。そこまでする必要があるのかと思われるほど重ねて行われる質問は、悪者として際立たせてしまい、真相究明から遠ざけ、再発防止や警鐘、啓発の効果を薄めてしまうと感じる時がある。
質問者には「聞く力」も求めたい。「聴く」私たちは、感情に振り回されてはならない。完璧な人間などいない、私たちは自らも罪人(つみびと)であることを自覚しつつ、他者から学ぶ謙虚さを持ちたい。
(総主事 佐竹 博)