2025年3月5日水曜日

ピンクシャツデー いじめは一人で解決できないから 2025

YMCAでは2007年にカナダの学生2人から始まった世界的な「いじめ反対運動」に賛同し、ピンクシャツデーの取り組みを行っています。

2月26日のピンクシャツデーには、各YMCAにおいてさまざまな取り組みが行われました。横浜中央YMCA放課後児童クラブ(アフタースクール)では、リーダーが、絵本「みんなのベロニカ」(童話館出版)の読み聞かせを行いました。動物園から農場にやってきたかばのベロニカの話ですが、最初は農場の動物たちに受け入れてもらえず、次第にベロニカは元気をなくし、とうとう自分の小屋から出てこなくなりました。そんなベロニカを気にかけてそれぞれが少しずつ声をかけ、ベロニカが元気になるという話です。リーダーたちは子どもたちに「ベロニカだったらどんな気持ちになる?」「みんなが農場の動物だったら?」と語りかけ、気持ちを想像しながら相手を思いやる気持ちや寂しい気持ちでいる時に自分だったらどのような声かけや行動をするかなどについて考える時となりました。

横浜北YMCAでは、水泳や体操などのクラスの子どもたちにピンクシャツデーについての話を行い、「みんなにはどんなことができるかな?」と問いかけ、共にいじめについて考える機会としました。また、自分たちのできることとしてピンクの用紙に、それぞれがいじめをなくすために取り組めることを記入し、館内に掲示しました。「みんなで心を一つに」「けんかしたときはごめんね を言ってなかなおりしよう」など身近にできることなどのメッセージがあり、それぞれが意識し取り組んでいこうという気持ちがあふれました。

 

タイのパヤオセンターからもピンクシャツデーへのメッセージが届き、ウクライナユースの2人もウクライナ語でメッセージを記入するなど多くの人とともにピンクシャツデーを通していじめや偏見などについて自分たちのできることを考える時となりました。
     


また、佐竹横浜YMCA総主事ならびに山添本部事務局長が委員として関わっている神奈川県や横浜市、地域の企業や団体などで主催する「ピンクシャツデー2025 in神奈川」では、2月26日に新都市プラザ(横浜駅東口地下2階)にてパネル展示などのイベントを行ったほか、神奈川県庁や横浜市庁舎、大観覧車コスモロック21など県内22カ所においてピンクのライトアップが行われました。地域の企業や団体とともにピンクシャツデーに取り組みました。


                                 広報 池田

2025年3月3日月曜日

140 YEARS OF HISTORY Vol.12 新しいコミュニティーの形成目指す

1970年代に入ると高度経済成長の歪みが現れはじめ、豊かさの質が問われるようになりました。1972年に就任した第9代𠮷村恭二総主事は、このような状況に対して「青少年の問題を中心に地域形成に寄与するYMCAでありたい」と人間性豊かな新しいコミュニティーの形成を目指して、1972年にはセンター第1号として戸塚センターを開設しました。常時200人の会員と200人の季節プログラム参加者がありました。翌1973年には二俣川センターを、1974年には青葉台センターを開設しました。

また、同1974年には、建設から半世紀が経ち老朽化していた本館の立て替えに着手し、日本経済が低迷にある中、伊原隆横浜商工会議所会頭(横浜銀行頭取)を会長に建設後援会が作られ、100人を超える後援会役員の方々の強力な支援によって、1975年10月、室内プールを備えた総合的な施設内容を備えた9階建ての「横浜国際青少年センター」(現横浜中央YMCA)が開館しました。スイミング、全日制予備校、結婚式といった事業が開始されました。

旧本館の解体は3カ月間に及びました。それに先立ち事業活動の分散が行われ、尾上町スカイビル、伊勢佐木町のイセビル、常盤町別館に本館事業を分散しました。関東学院三春台高等学校の好意により体育館を夜間借用し青成体育プログラムにとっては大きな助力となりました。


多くの支援によって建てられた横浜国際青少年センター (1975年 現横浜中央YMCA )

「人びとの言葉」

震災遺構となっている福島県の「浪江町立請戸小学校」に行ってきました。津波を受け破壊された校舎の1階部分には、波によって1カ所に集められ変形した機材や、児童たちが使っていたと思われるシャベルやパソコンなどがそのまま残っていて津波の怖さを伝えていました。津波の被害を直接受けなかった2階の展示スペースには、人びとの言葉がありました。請戸小学校の元児童が10年後に寄せた文章には「避難した高台で聞いた「請戸全滅」の防災無線。翌日の朝、見慣れない防護服を着た人たちの姿、目に入るものすべてのものが今まで経験したことのないものでした」とありました。

災害に遭われた方々の声をこれまでのYMCA経験の中で聞いてきました。「地震で何もかも失った、でも生きていてよかった」「地震だけならまだしも津波は何もかも攫って行ってしまった」「地震の後立ち直ろうとしたら水害に遭った。地震だけならまだしも水害はきつい」など。展示スペースにあったコメントは「地震と津波だけなら地区ごと集団移転も受け入れてそこでみんなで頑張ろうと思えたかもしれない。でも原発災害で避難した後では、集団移転の場所に戻るかどうか決められない」。語り部の言葉には「日が暮れて捜索が打ち切られ翌朝にと思ったら、翌朝になったら強制的に避難しなければならなくなった。まだ生きていた人がいたんじゃないか…」と。

海に面した学校前の広場に出ると、海に向かって右に福島第一原発の煙突や作業クレーンが見えました。こんな近くだったのかと。わずか約6キロ。あそこで作られた電気のほとんどは200キロ先の首都圏で使用されていました。小名浜に住む叔母の言葉「どうして東京で使う電気を福島で作らなければならないの? 東京湾に作ればいいじゃない」。

(総主事 佐竹博)

2025年3月2日日曜日

横浜YMCA春季キャンプリーダートレーニングが始まりました

3月2日 春季キャンプボランティアリーダーのトレーニングが行われました。

今回のトレーニングのテーマは「センス・オブ・ワンダー(自然やものごとに対して不思議さや神秘さを感じ、驚いたり感動したりする感性)」自然のある場所(フィールド)に出かけてグループで話をしながら春を見つけながら子どもたちとのかかわり、リーダー同士の連携を気づき学ぶことが出来ました。


柏尾川沿いの自然の中で感じるビンゴを探しにグループに分かれていざ戸塚の自然に飛び出ました。


春の暖かな香りや風の音、川のせせらぎ、桜のつぼみなど自然環境を見つめながら、子どもたちと向き合う感性を磨いていきました。




室内に戻ってからはキャンプを企画するためにテーマやプログラム内容を話し合って発表を行いました。これからみんなでミーティングを行う中で意見を交わしたり、聴くことの大切さを身につける実践にもなりました。

最後にYMCAキャンプで大切にしている目的や成長に大切な価値についても確認をしていきました。

次回はスキーの理解を深めていきます。

キャンプ担当(田北・石濱・上田・奥山・栗原・服部)

2025年2月10日月曜日

YMCAパヤオセンターとオンライン交流会をしました!

1月25日に、YMCAパヤオセンターと2024年3月と8月のグローバル・スタディーツアー in タイに参加した学生たちがオンライン交流会を行いました。

オンライン交流では初めに、パヤオセンターからスタディーツアーが終わってからの子どもたちの様子と夏に起こった洪水の被害や支援状況について報告がありました。

1年を通して暖かいタイですが、最近は気温が低く冷える日も多くあり、子どもたちに長袖を着るようにと言っているが、なかなか着たがらない子どもたちもいるという話を聞きました。洪水被害のお話では、子どもたちの通っている学校が水浸しになり、教室の浸水、壊れた遊具の写真などを見せてもらいました。また子どもたちの出身の村に行くための道が陥没し支援物資がなかなか村に届かなかったなどの話を聞き、改めて洪水による被害の大きさを実感しました。

次に、スタディーツアーの参加者がブレイクアウトルームで分かれ、パヤオセンターの子どもたちと交流をしました。3月の参加者とのグループでは一緒に遊んだ遊びのことや最近流行っていることについて話をし、8月の参加者とのグループではクリスマスをどのように過ごしたかなどお互いの近況報告を行いました。

ブレイクアウトルームでの会話が終わった後、横浜YMCAで現在行っている「YMCAパヤオセンターに自転車を送ろう」募金についての報告をしました。

会の最後には、パヤオセンターの子どもたちからサプライズで日本語の歌「君は愛されるために生まれた」を披露してくれました。久しぶりにパヤオセンターの子どもたちと交流が出来てツアー参加者たちはまたパヤオセンターに行きたくなったという声や子どもたちが元気そうで安心したという声が聞けました。

スタディーツアーをきっかけにできた参加者とパヤオセンターとのつながりをこれからも続けていけるようこのような交流の機会をもちたいと思います。

             担当 グローバル・スタディーツアーinタイ引率 油井

 

2025年2月3日月曜日

sibling

最近「sibling」という単語に出会いました。最近、見るようになってきた性別に関係なく表現した「きょうだい」のことです。日本では障がいのある子どものきょうだいに使用するケースが多いようです。

横浜YMCAでは障がいのある子どもたちを対象にした運動の機会の提供や学習支援、キャンプなどの自然体験活動、ソーシャルスキルトレーニングなどのプログラムを長く実施してきました。これらのプログラムを支援するためのチャリティーランも四半世紀以上実施し、成長した青年向けの就労支援も展開しています。多様性を尊重し、違いを認め、共に生きる社会の実現に向けた取り組みは今も時代に合わせて変化しながら展開しています。

最近では「障がい児プログラム」という表現を「支援を必要とする子どものためのプログラム」「特別なニーズのある子どもを対象としたプログラム」と表すこともあります。主人公か対象者かなどの視点や配慮、思いが、表現と言葉の使い方に現れ、時代の変化とともに試行しながら用いています。

2025年度から湘南とつかYMCAでは「特別なニーズのある子ども」の「きょうだい」を対象としたプログラムを始める予定です。日ごろから我慢をしがちな中にあるのでは、との思いから、リラックスした楽しい雰囲気の中で、同じ立場の仲間と出会い、思いっきり遊ぶ機会の提供と仲間との思いの共有、ピアサポートの機会を設ける取り組みです。YMCAでは初めての取り組みです。今まで長く関わってきた子どもたちの近くにいた子どもたち(きょうだい)へのまなざしを持った企画が生まれてきました。「横浜YMCA-私たちの使命」が具現化されようとしている瞬間なのだと思っています。

(総主事 佐竹博)


140 YEARS OF HISTORY Vol.11 1960年代後半、教養文化講座盛んに

1965年10月東京オリンピックが終わり、1960年代の後半に入っていく。カラーテレビ、カー、クーラーの3Cが新三種の神器といわれ、経済発展は日本の自動車生産量を世界三位に達したといわれました。1966年から1967年にかけて横浜YMCAでは少年・青年・体育の各有志指導者の養成に力を入れると同時にプログラム活動としては教養文化的な講座を盛んに行いました。青年教養大学講座、人生設計講座、母親大学講座などを開き、これらの講座プログラムは1968年の結婚講座、婦人文化講座、1969年の青年教養大学合唱講座、将棋講座、民法講座などを加え、続いていきました。

1968年には真鶴のリトリートハウスを整備して鉄筋コンクリート三階建てとし、本格的な研修施設となりました。1968年5月に起工して同年12月に完成し、献堂式を1969年1月15日に行いました。1969年には常盤町本館のホステル事業は将来性を判断して中止しました。

同年に、1968年から従来国際友好奉仕活動として行っていた国際関係の事業を「国際事業委員会」として故杉本恭之助氏が委員長となり、事業方針を立てて組織的効率的に国際奉仕活動を展開するようになりました。

1969年にはプログラム対象年齢の低下が始まり、3歳児と母親、小学生のためのサッカー教室を開始しました。

YMCA真鶴リトリートハウスが開館(1969年)