父 連行-釈放-韓国へ
敗戦後各地で、旧体制崩壊後の現地政府が、その地の日本人指導者層を捕らえ、朝鮮民族への諸罪責を問いました。父も、その指導者層の一人として、旧道庁所在地の新義州に連行されました。多くの人の生死が不明になることや、悲惨な死を遂げた方もいらっしゃいました。父の場合は、ある時期まで厳しかった取り調べも、ぱったり止み、三カ月余の後、釈放され、居留地に戻ることが許されました。当時、日本人をかばう証言は誰も引き受け手がなく、釈放されたことは、どこのどなたが主張し、裏付けたのか、全く不明でした。
父が帰宅すると、その地に居住している日本人集団のまとめ役の仕事を引き受けることになりました。日本人は、これまでの生活の場を明け渡し、集団で生活することが強いられました。そこに各地から避難してきた人たちを含め日本人の生活が支えられるように、対現地政府や当時駐留したソ連軍の司令部などと、さまざまな折衝を行い、日本人集団の和を保つ役をし、日本への帰還の交渉など心休まる時のない毎日を送りました。1946年9月初めに、父は大部分の日本人を送り出したあと、さまざまな支援を必要とする老人を含む集団を、小さな船2艘をチャーターして、海路黄海を南下脱出し、210日の時期であり、海上で台風に翻弄され、マストが折れるほどの損傷を受けつつ、ようやく38度線を越えたのか越えないのかという引き潮の干潟に下ろされて、現・韓国側の地を踏むことができました。
(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)