丹東で生まれた私と父の歩み
私は、朝鮮と中国との境の中国側にある「安東(現在の丹東)」の病院で生まれ育ちました。私の人生は父の歩みに影響されましたので父の歩みに触れたいと思います。1917年(大正6年)に青山学院を卒業し、中等学校の英語教師になることを望んでいました。ところが、ある宣教師の呼び掛けに応じ、まったく思いも寄らない朝鮮の人びとのためのミッションスクールに赴任しました。そこは、ソウルの南方約130kmにあり、以前、韓国の首都機能の移転先として話題になった「公州(コンジュ)」にある「永明学校」で校内ただ一人の日本人として、朝鮮の人びとの社会の中に過ごす毎日でした。その2年後、三・一独立運動、つまり1919年3月1日に起った朝鮮独立運動の渦の中に置かれることになりました。身の危険を覚えることはなかったようですが、日韓事情の資料によると、その学校の学生ら、またその地の公州教会の牧師も参加したと記録があり決して平穏であったとはいえないでしょう。
父は、教師生活3年余の後、「ある人に勧められて」朝鮮総督府の職員となり、現在の北朝鮮・平安北道に赴任しました。その後、私が小学校に入学した年に、父は、「農業水利事業」の組織に身を移し、戦争末期に「米穀流通事業」の組織に移り、私が卒業した小学校の所在する「定州(チョンジュ)」の地で敗戦の日を迎えました。
(元横浜YMCA常議員・元大和YMCA運営委員長 髙橋信夫)