戦死した上級生を今も思う
小学校時、近所に人気のあった2・3年上の暴れん坊の上級生がいました。学校帰りに一緒になると、通学路でない近道である道へ誘われ、蛇やカエルを捕まえてよく遊びながら帰りました。その上級生は小学校の高等科2年を終え、船員になったと聞きました。
太平洋戦争前だったと思いますが、暴れん坊の上級生が船員服姿でさっそうと休暇で帰って来たことは、近所ですぐ話題になりました。彼は大戦勃発の翌年の冬に、休暇で1週間ほど帰郷していると母が井戸端会議で聞いてきました。後日の話で上級生は、帰ってきて2・3日は陽気で楽しそうだったそうですが、そのうちに無口になり、最後の夜には、今度乗船する船は爆弾ばかりを積んで戦地に行く船で、すでに同僚の乗ったこの種の船が何隻も敵潜水艦の魚雷で轟沈(ごうちん)していると語り、自分が乗船する船もとても帰還は難しく、おそらく轟沈し死ぬであろうと両親に泣きながら話したということでした。
翌朝ご近所にいつもの別れのあいさつはなく、両親と兄弟に泣いて別れを告げたそうです。それからしばらくして戦死の報告がありました。特攻隊編成の2・3年前のことでした。
元気で愉快な上級生は、生きていれば相応の働きをした先輩であっただろうと今でも思いだします。
(厚木ワイズメンズクラブ 田口堅吉)