横浜大空襲と終戦
1945年5月29日は、横浜市民にとって忘れられない横浜大空襲の一日となりました。早朝から正午にB-29爆撃機500機以上・P-51戦闘機100機以上が、横浜市内中心部(山手・山下公園地区を除く)を波状空襲し、死者8千人から1万人が亡くなりました。この日は、「早引け」(早退)が認められました。乗物すべてが不通となったため、歩いて国道1号を戸塚・元町のブリヂストン工場前まで来た時、行く手の横浜市街方向の空には、火災による入道雲のような白い煙が立ち上がり、100人ほどの集団がこちらに向ってきました。顔はすすけて真っ黒、焼け焦げたぼろきれをまとい、ツエ代わりに棒とも木切れとも思えないものを持ち、道路いっぱいでした。ほとんどの人が裸足で、「水、水…」と言い、当時15歳の私は一瞬、棒立ちになりましたが、脇のブリヂストン工場の池の方を指すと全員が池を目指し駆け込んでいきました。
1945年8月15日正午、終戦の詔勅を工場の前庭で、ラジオから流れる天皇の放送(玉音放送)に聞き入りました。放送そのものは10分で終わりましたが、前後の解説などを含め1時間ほど、照りつける太陽に汗をぬぐうことも忘れ、立っていたことを覚えています。終わって周りを見ても、皆うつむき、誰一人として声をあげる者はいませんでした。翌日の新聞には、大きく「…共同宣言を受諾し、万世のため太平を開かんとす…」と前日の放送全文と宮城・二重橋前の砂利にひれ伏す無数の市民の姿が載り、改めて「日本は敗けたんだぁ」と感慨新たなものがありました。
(横浜とつかワイズメンズクラブ 加藤利榮)