2022年8月5日金曜日

体験を平和につなぐvol.13

いのち つないだ工場の配置換え

1945年、15歳・中学3~4年。連合軍の空襲が激化の一途をたどる中、私のいた平塚工場も直撃弾による空襲を受ける危険が迫っているということから、2月の初めに、大船郊外にあった同工廠深沢工場に急きょ配置換えとなりました。深沢工場は、すべて横穴式の壕の中に設置され、焼夷弾からの脅威・被害は免れることができました。(平塚工場は、深沢工場に移り数日後に空襲で壊滅しました)。

深沢では、大船駅で降りた後、江ノ島道路(当時、京急電鉄が開発・管理した日本で初めての自動車専用有料道路・当時、閉鎖中)を工場まで駆け足で15分、工場に着く頃はじっとりと汗をかきました。仕事は、「30尺旋盤」と呼ばれていた長尺の工作機械を担当しました。仕事の内容は、「回天魚雷」(火薬を装填した魚雷に人間が乗り、敵の艦船に体当たりして自爆する兵器・「天を回らし戦局を逆転させる」意)のプロペラ部分の「止めネジ」の作製でした。

1945年5月29日は、横浜市民にとって忘れられない横浜大空襲の日となりました。当日は、B-29爆撃機500機以上・P-51戦闘機100機以上が早朝から正午に掛け、横浜市内中心部(山手・山下公園地区を除く)を波状空襲により、死者8千人から1万人と言われました。

(横浜とつかワイズメンズクラブ 加藤利榮)