私の育った愛知県岡崎市は、人口が全国ランキングの下位にあり、空襲を受けたのは首都圏と比べると遅く、敗戦間近の7月中旬の夜でした。爆撃されたら、父は会社へ直行するから、中学生の私には祖母をはじめ家族を連れて安全な農地に逃げるようにと言われていました。横たわる死体と燃え盛る家々の間をぬけて、祖母の手を取って近くの農地にたどり着き、九死に一生を得た思いでした。悪魔のように思えた低空飛来の敵の爆撃機編隊も去り、火災も盛りを過ぎ、夜明けとともに、祖母はじめ家族を無事自宅に連れ帰ることができました。
私の卒業した中学は明治時代アメリカの宣教師夫妻が開設した英語学校を基に創設された県立中学校で、卒業者には僧侶と医者が多いと聞いていました。戦争たけなわ地元女学校からは従軍看護婦志願者が続々出ているのに中学はと、ちまたでは言われるようになってました。
戦い敗れて、遠くの戦地から命からがら帰国した友から、担任の先生はじめ周囲から軍隊へと言われ続け、思い切って、志願して軍隊に入隊したはいいが、九死に一生を得たと涙なくしては聞けないような実話を聞いた覚えがあります。
(厚木ワイズメンズクラブ 田口 堅吉)