2022年7月9日土曜日

体験を平和につなぐVol.12

戦時中の思い

私は、戦時中10代でした。何か大きな波に押されるように揺れ動いていたと感じます。時系列に振り返りたいと思います。

1941年、11歳・小学校5年。この年、文部省令により、(小学校の呼称につき)「小学校から国民学校と改称」になり、横浜市立岡津国民学校に通学中でした。同年12月8日・太平洋戦争(第2次世界大戦)が勃発。自宅から学校まで片道2.5キロの砂利道をハダシ(校則)で通学し、校門をくぐる頃は、シモヤケの足・指が血だらけになっていました。1942年、12歳・県立湘南中学校(当時は、5年制の旧制中学校)入学。学校に「配属将校」の肩書の軍人教師が何人か配置され、「軍事教練」の科目では、御殿場の演習場へ3回ほど泊まりがけの訓練に参加しました。訓練は過酷極まりないものでした。日本に不意を突かれた米国などの連合国軍は、マレーシア・シンガポール・フィリピン・ビルマ(現ミャンマー)などで惨敗を喫していました。1944年、14歳・中学3年。稲刈りや田植などの「農村動員」が始まり、その動員先は、高座郡御所見村や海老名村(当時)の農家に泊まり込み(当初1泊2日程度が、いつの間にか1週間単位に)で行われました。同年9月、軍需工場(横須賀海軍工廠平塚工場)等へ、同学年生約150人は数カ所に分けられ動員・配置され、30人ほどの仲間と平塚工場に行きました。平塚駅から15分ほどの道のりを小走り状態で通勤しました。

(横浜とつかワイズメンズクラブ 加藤利榮)