2021年9月3日金曜日

体験を平和につなぐ Vol.2

学童疎開

小学校(国民学校)1年の12月に真珠湾攻撃があり、世界大戦開戦となった。戦争初期にはシンガポール占領をはじめ、勝利のニュースに「万歳」の声が沸いた。そのうちアメリカ、イギリスも容易に降参しないことが分かり、長期戦への覚悟が求められるようになった。1944年夏には北九州工業地帯への空襲が始まり、「学童疎開」という政策が施行された。大都市に住む子どもを地方へ疎開させ、空襲被害の軽減と次代の兵力の温存を図ったものである。具体的には大都市の4年生以上の学童に地方の縁故者の元への疎開を奨励し、それが出来ない子どもは学校ごとに集団で疎開させることとした。現在の東京都文京区にいた筆者の学校の集団疎開先は宮城県鳴子温泉で、当時は鉄道で24時間以上かかった。悩んだ家族は相談の上、筆者を葉山町の伯父一家の家へ縁故疎開させると決めた。4年生まで一緒に学んだ級友との別れであった。級友のひとりは後に家族恋しさに鳴子を脱出、長時間の汽車で東京へ戻ってきたとのうわさを聞いた。孫たちを見ると4年生の子どもに親元を離れて生活させるのはかなり過酷に思える。当時の筆者は皆同じ境遇なので、大したこととは感じなかった。
 
終戦後疎開先から戻った子どもの一部は、家族が空襲で亡くなっており、戦災孤児となる悲劇も産んだ。この学童疎開は多くの悲劇も生んだ。しかし空襲から多くの子どもの命を守った点では評価されて然るべき政策ではあった。

(横浜YMCA元常議員 松島美一)