震災遺構となっている福島県の「浪江町立請戸小学校」に行ってきました。津波を受け破壊された校舎の1階部分には、波によって1カ所に集められ変形した機材や、児童たちが使っていたと思われるシャベルやパソコンなどがそのまま残っていて津波の怖さを伝えていました。津波の被害を直接受けなかった2階の展示スペースには、人びとの言葉がありました。請戸小学校の元児童が10年後に寄せた文章には「避難した高台で聞いた「請戸全滅」の防災無線。翌日の朝、見慣れない防護服を着た人たちの姿、目に入るものすべてのものが今まで経験したことのないものでした」とありました。
災害に遭われた方々の声をこれまでのYMCA経験の中で聞いてきました。「地震で何もかも失った、でも生きていてよかった」「地震だけならまだしも津波は何もかも攫って行ってしまった」「地震の後立ち直ろうとしたら水害に遭った。地震だけならまだしも水害はきつい」など。展示スペースにあったコメントは「地震と津波だけなら地区ごと集団移転も受け入れてそこでみんなで頑張ろうと思えたかもしれない。でも原発災害で避難した後では、集団移転の場所に戻るかどうか決められない」。語り部の言葉には「日が暮れて捜索が打ち切られ翌朝にと思ったら、翌朝になったら強制的に避難しなければならなくなった。まだ生きていた人がいたんじゃないか…」と。
海に面した学校前の広場に出ると、海に向かって右に福島第一原発の煙突や作業クレーンが見えました。こんな近くだったのかと。わずか約6キロ。あそこで作られた電気のほとんどは200キロ先の首都圏で使用されていました。小名浜に住む叔母の言葉「どうして東京で使う電気を福島で作らなければならないの? 東京湾に作ればいいじゃない」。